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2012年11月10日 (土)

女川飯田口説の於節の「松葉の曼陀羅」仙台ひとり旅のはずが……

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      善導寺の「松葉の曼陀羅」

 左の写真は善導寺(仙台市若林区新寺小路)所蔵の「松葉の曼陀羅」。11月3日は年に一度の公開の日であり、於節の命日(新暦に直せば12月18日?が於節の命日)にもあたる。しかし、案内の看板もなく、予想した人出もなく、寺内はひっそり。カメラをもった老夫婦のみが庭を散策していた。恐る恐るインターフォンを押すと三月前にも聴いたことのある女性の声、「どうぞお入りください」と。女性の後ろをついていくと二十畳ほどの部屋に客の女性が一人曼陀羅を観ていた。寺としての供養祭は行われていないようだ。主殺しの「大罪人」の作品ということもあるのか、寺ではもてあましているのだろうか。『葛西氏と山内首藤一族―女川(飯田)口説』の著者・紫桃正隆氏によると、昭和39年にこの寺を訪れた際、当時の住職も於節という人物の由来を知らなかったというから、藩政時代末期に廃寺となった遍照寺から善導寺に移された際にはすでに「遍照寺の名物」も重荷になっていたのだろう。

 僕は一人で一時間たっぷりと曼陀羅を観ることができた。枯れた松葉で刺繍したとは思えない見事な阿弥陀如来像だ。紫桃氏は、前掲書の中で、「松葉の曼陀羅」を拝観した際の驚きを次のように述べている。

 〈二百年以上もの星霜を経た品なので、全般に色があせて、蓮華の台座の所の糸が、だいぶ引き抜かれ傷んではいたが、私が驚いたのは勿論、そのことではない。構図と配色が、近代絵画、とくにピカソの立体派の技法に全く酷似していたからである。・・・・陰影をつくるのにいろいろな色彩をモザイク的に組み合わせた刺繍など、その技法を、立体派といわずば何と言おうか……。〉

 ピカソも立体派も僕にはわからないが、矯めつ眇めつ観ること一時間、驚きは消え次第に温かいもので心が満たされていくのがわかった。僕は、なぜか、ひまわりや星空、麦畑を描いたゴッホの絵をみているような気分になった。

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           女川口説

 (女川飯田口説 第一段のうち:紫桃氏前掲著より)

 

 能登の家中の御用役人に                                  

 苗字新藤 名は喜右衛門よ

 年は二十九で 貴量よき男

 而も喜右衛門 御茶の間御番

 茶の間座敷は喜右衛門一人

 そこで奥様 心を寄せて

 茶の間障子を さらりと開けて

 みれば恋しき喜右衛門一人

 猶も奥様 飛び立つ計り

 金の屏風に 立ち寄りかかり

 顔に袖あて 小声になりて

 何と喜右衛門 徒然じゃないか

 そこで 喜右衛門うろたえ顔で

 頭地に付け こわ奥様よ

 私は御奉公で 是非なきものよ

 あなた徒然は 益々べくと

 言えば 奥様座敷へ座り

 火取り引き寄せ煙草がをあり

 四方の話を 暫くなさる

 そこで奥様 申さる様は

 如何に喜右衛門 よう聞き給え

 私は 深山の繁みの桜

 さては野に咲く 主なき花よ

 いらぬ花よと 振りすてられて

 無念ながらも 月日を送る

 花をほしくば 一枝折られ

 そこで喜右衛門 申さる様は

 花をほしさは限りはないが

 梢高くて 折られはせまい

 そこで奥様 申さる様は

 扨ても愚かや 喜右衛門殿よ

 梢高くば 登りて折られ

 雪と氷は へだてがあれど

 解けて流るる 谷川水よ

 梅と桜は へだてがあれど

 散りて落れば 木の根に帰る

 月と水とは写りが早い

 時を写せば 流るる水よ

 忘れ給うな 喜右衛門殿よ

 心残して お帰りなさる

 これが恋路の種とやなりて

 文や玉章折り紙などを

 送り 送られ 妹脊の仲よ

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       横山不動尊と水戸辺

 左の写真は、日本三大不動尊(登米市津山町横山)の一つである横山不動尊である。被災地支援のボランティアに参加して一年半を過ぎたが、僕たちの仮設団地での「ふれあい喫茶」は、この横山不動尊曹洞宗白魚山大徳寺のみなさん抜きには考えられない。お世話になったとか、拠点としてつかわせてもらったとか、という言葉では言い尽くせないものがある。それはただただ不思議な縁(えにし)というほかはないものだ。

 この横山不動尊は、その縁起によれば、開創は保元年間(1156~1159)にさかのぼる。朝鮮半島から南三陸町戸倉の水戸辺浜に丈六の尊像が流れ着き、現在の不動堂後方の山頂に奉安されたのが寺(奥の院)の起源だという。

 

      於節・喜右衛門の道行

 能登を斬殺した二人は、飯田屋敷の裏手にある峻剣「翁倉山」へと逃れた。〈女川村から翁倉山越えで他村にでるには峠道が二口あった。その一つは現在の大上という集落を通って追分温泉への峠道を登って山頂に抜け、本吉郡の津山町横山(昔は本吉郡南沢町と云う)に出る峠道――。 その一つは、女川の要害から、飯田屋敷前の街道を登りつめ、秋丸と言う(現在一軒家がある)所を通り山頂に抜ける。山頂で追波部落から登り来る峠道と合し、進路を北東にとり、谷川沿いに降りると、本吉郡水戸辺(現戸倉村)村落に出る道――。・・・・(二人は)・・・・水戸辺に出る峠を選んだ。〉(紫桃氏前掲著)                         

240 左の写真は、昨年の大津波で破壊された水戸辺。この集落の人たちにも、避難所や仮設でずいぶんとお世話になった。

 旧暦四月のこと、二人は、朝の光に鮮やかに映える若葉青葉に覆われた翁倉山を水戸辺の村に向って降りていく。途中、西の空を望み、眼下に見える南沢(横山)の町の横山不動尊に向って二人手を合わせて道行の恙なきを祈ったという。

 (女川口説 第二段のうち より)

 ・・・・・・

528_2 せめて一日 身上をたてて

 ひよく れんりの契りをこめて

 夫よ 女房と呼び 呼ばわれて

 ややの一人も もうけしならば

 あとは呵責に せめらるとても

 いとう心は 少しもないと

 ・・・・・・

 二人手をとり 谷へと降る

530 人の通わぬ翁倉ヶ嶽を

 根笹 かや原かきわけながら

 知らぬ山路を ようよう下る

 みとろなければ 水戸辺の宿よ

 

 紫桃氏によれば、〈於節、喜右衛門がひそんでいたと云われる場所が、現在も本吉郡水戸辺に残っている。〉という。はたして津波でどうなったのか……。

左の写真は、仙台市泉区七北田杉の田(八乙女から道路拡張で移転された)七北田処刑場跡。二体の地蔵の左が於節地蔵と思い、野の花を一輪たおってお供えしたものだ。ほんとの於節地蔵はその上の写真の右端から二番目のようだ。

於節、喜右衛門の処刑場跡をみることができたのは、あるご縁のたまものであった。僕の日帰り一人旅の予定にはなかった。

(つづく)

 

 

 

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コメント

私は宮城県石巻市出身です
飯田口説のことを色々と勉強したいのですが
講演会などはありますか
ぜひ参加したいです。

投稿: 歴史大好きさん | 2016年1月18日 (月) 13時31分

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